藤田嗣治
〜「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれ、世界で最も愛された日本人画家〜
TSUGUHARU FUJITA
1886年 東京生まれ。 1910年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を卒業後、単身渡仏。モディリアーニ、キスリングらと親交を結ぶ。研鑽を重ね、世界的画家の仲間入りを果たす。1925年レジオン・ドヌール勲章受章。1942年戦争記録画取材のため、軍により東南アジア各地へ派遣される。1946年日本美術会が結成され戦争責任論議が本格化する。1951年「我が室内」「アコーデオンのある静物」など代表作をパリ国立近代美術館に寄贈。1955年フランス国籍を取得。日本藝術院会員を辞任。1966年ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ・フジタ礼拝堂を自ら建設。 1968年歿。享年81。日本政府より勲一等瑞宝章を授与される。
20世紀初頭、芸術の都パリで旋風を巻き起こし、天才ピカソをして「彼こそ真の天才」と言わしめたフジタ。滑らかな下地の上に繊細な線と薄塗りで描いた女性像や裸婦作品が、グラン・フォン・ブラン(素晴らしき乳白色)と絶賛され、画家として揺るぎない地位を確立した。
予期しない結果を生み出すということが一番面白い。ところが、なかには線とは物体の輪廓を描けばよいと思っている画家がある。線とは、単に外廓を言うのではなく、物体の核心から探求されるべきものである。美術家は物体を深く凝視し、的確な線を捉えなければならない。そのことが分かるようになるには、美の神髄を極めるだけの鍛錬を必要とする。〜藤田嗣治「地を泳ぐ」
1913年27才のフジタは日本人のまだ少ないフランスに渡った。直後に起きた第一次大戦の混沌としたパリでヨーロッパの源、美の原点に立ち返ろうとルーブル美術館で古代美術の模写に励み充実した生活を始める。
1917年の初個展で大成功を収めたフジタは高い評価を得て、パリ画壇の寵児へとなっていった。1924年フジタを世に出したとされるフェルナルド・バレーと別れ、ベルギー生まれのユキと愛称されたリュシー・バドゥとパリで暮らし始める。
Youki,the artist’s wifeはこのユキの為に描かれた作品であろう。フジタ独特の細い線描で描かれた本作品は陰影によって肌に立体感と透明感が生まれ絶賛されたフジタの妙技を味わえる一作である。
近年、世界のマーケットでは盤石ともいえる地位と存在感を築き上げたフジタの作品の中でも、’24年制作の本作品は数少ない貴重な作品である。