棟方志功 〜日本が誇る世界のムナカタ〜
SHIKO MUNAKATA
1903年 青森市に生まれる。
1924年 画家を志して上京する。
1936年 国画会出品の「大和し美し版画巻」により、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らに見出され、指導を受ける。
1945年 富山県西砺波郡福光町(現 南砺市)に疎開する。
1951年 富山県福光町から東京都杉並区荻窪に居を移す。
1952年 ルガノ(スイス)国際版画展に「女人観世音板画巻」を出品、優秀賞受賞。
1955年 サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に「釈迦十大弟子」などを出品、版画部門最高賞受賞。
1956年 ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品、国際版画大賞受賞。
1959年 初の渡米。ニューヨーク、ボストンなど6都市の大学で板画の講義と個展(’65年、’67年、’74年)
「ヨーロッパ巡回棟方志功展」(国立近代美術館)が開催される。同展は以後2年間にわたりヨーロッパ主要都市を巡回。
1965年 朝日文化賞受賞、紺綬褒章受章。
1967年 日本板画院名誉会長に就任。
1970年 文化勲章を受章。文化功労者として顕彰される。
1975年 自宅で死去。「棟方志功記念館」(青森市)が開館する。
2024年 「棟方志功記念館」が閉館。所蔵作品は青森県立美術館へ継続して展示される。
棟方の言葉
<板画>
わたくしが板画という字を使うので、板と版とどう違うのかと聞く人がいるんですよ。まえまえ、わたくしも板画をはじめたころは、版という字を使っていたんだが板画の心がわかってからは、やっぱり、板画というものは板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだと思いましてね。ほかの人たちの版画とは別な性質から生まれていかなければいけない。板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたわけなんです。
〜「花深処無行跡」昭和38年
<倭画>
鎌倉絵巻は、日本の絵画の最も美事な振舞として、今を進めて居る日本の魂の様に、この美事はつづいて居る。桃山障屏の偉大は、わたくしたち日本の立派な度胸として今に歓喜を血脈させて離れない。日本美術の生命は、鎌倉、桃山に息憤かれ居る。(中略)倭画を、わたくしが創めた所以であります。〜昭和28年5月
※日本画用の絵具で描いた自分の肉筆画作品を棟方は<倭画>と呼び表した。絵巻物や障壁画に代表される伝統的な日本の絵画に対する称賛を込めて「やまと」の語を使用したもの。